【090111】臼杵陽さんの発言

◎前編


◎後半


臼杵:…ええと、まず最初ですが、これは東京大学の飯塚さんという方が、資料として提示したわけですが、テロリストとは誰かという問題です。
 実はこのヨルダン大学の先端(?)研究所というところが、アンケート調査をとった、テロリストとは誰なのかというアンケート調査をとったときに、アラブ人の人びとが答えているわけです。彼らにとっては圧倒的多数が、九〇パーセント以上が「イスラエルの暴力」である、それがテロリストだというふうに見ていて、それではイスラエル側が、あるいはアメリカ側が言っている、ハマースだ、イスラミック・ジハードだ、ヒズブッラーだとかいった、そういった組織がテロリストであるかというふうに考えているのかというと、圧倒的多数の人がそうじゃないと思っている。つまりほとんど数としては微々たるものである、と。
 つまりイスラエル周辺のアラブ諸国の人たちから見れば、テロリストというのは自明のことである。まず、国家テロという言い方がひじょうになされると思いますが、イスラエルの行なっていることは皆、国家テロだというふうに思っている、という点は考えてみる必要があります。
 またもう一つ考えていただきたいのが、テロルという言葉の語源です。弱者が使ったもので、これは昔むかし、ハマスのホームページを見ていたら、アラビア語で書いてあったのですけど、テロリズムのことをイラハブ(?)というのですが、要するに脅すということなのですが、我われをテロリストと呼ぶ人びとがいるが、呼べばいいではないか。我われはテロリストだ、と。何故ならば我われは弱者であって、こういう手段しか使えない。したがってこれは正当なものなのだ、と。そういうものを見ながら、これはやはりテロという本来の意味に戻っていく必要があるのではないかという、そのあたりは重要ではないかと考えます。
 つまり今の文脈で、アメリカ的な文脈でテロというものを我われが押しつけられて、それでまたテロリストというとある種の差別用語になってくるということになる。このあたりは我われ自身の認識として、変えていかなければいけないと、やはり思ったわけであります。
 テロというのはまさに作られていくということで、これは飯塚さんの言葉なのですが、まさに本来テロをやろうとする人というのはわからないわけです。つまりテロ組織に属しているということが、テロリストになっていくということでございまして、属しているグループ、この場合にはハマスであるということもございますし、アフガニスタンの場合にはタリバーンという、そういう人たちを殺すのは、そういう連中を殺すのはテロとの戦争になっていくということで、いわばテロリストというのは作られていくものだということがあるということは、やはり考えていく必要があるだろうということは思うわけであります。
 今回のやはりガザへの侵攻というものは、先ほどのアピールのなかにも出ていましたが、けっしてこれは、たとえばマス・メディアの報道によれば、これは国内選挙向けのものだというふうに、タイミング的には二月一〇日に総選挙があるから、そのための票稼ぎのためにやっているんだというふうに説明されることもあります。しかしこの計画というのは前々からなされていたというのは、これは東京外語(大学)のなかでアラビア語の新聞の翻訳をやっているプロジェクトがありますが、そのアラビア語紙でも、あきらかにこれはずっと前から計画されたものであるということは報道されていることで、これは決して単視眼的な話ではないということです。
 とりわけバラク国防相が就任してから、去年の夏ぐらいから計画されていることであって、ということは単にこれはガザというものに対して、イスラエルがきわめて意図的なかたちで攻撃を加えるということが、歴史的に見て必然的なものだったということは、やはり言えるのではないかというふうに思います。
 もう一点、ここのなかで出たことで、繰り返しになってしまって申し訳ないのですが、我われ研究者とジャーナリストと積極的にコミットメントしている方とどう違うの言うと、変わらないのですが、実はそれぞれの研究者の主体的な問題意識によって、対象というのが決まっていくわけですので、その意味では我われの側から見た場合に、パレスチナの情報というのは相当に多いと思います。これは酒井啓子さんが言っていたことでもありますし、私自身も研究者のはしくれとして、かなり情報はもう流通しているわけです。
 ただその情報の流通の仕方の問題でありまして、一番根本的なところの、意外と歴史的な側面からの情報というのは、あるようでない。先ほど出たと申しましたのは、まさにパレスチナとイスラエルというのは紛争当事者として、同じアクター、主体として扱うこと自体の問題性、ということです。これはもう明らかに認識が間違っている。それというのは、問題の根源を隠蔽するために使われる、よくあるパターンでありまして、そこに日本の新聞に対する批判があります。
 つまり暴力の悪循環ということで、両方ともに対して自制を呼びかけるといったような、したがって停戦決議を受け入れるべきだという。ハマースに対してはこれはカッサーム・ミサイルを撃つことをやめないさい。またイスラエルに対しては攻撃を中止せよという。一見これは正当な議論であるかのように見えますが、実は問題の根本というのは一九世紀の末に明らかで、これはパレスチナ人の側に対してシオニストの入植から始まったことであって、入植者というのが、とりわけ当時で言えばイギリスの帝国主義に支援される形で入ってくる。第一次世界大戦後はとくにそうですけれども。
 この出発点がそもそもパレスチナとイスラエル、あるいはパレスチナとシオニストという問題設定そのものが間違っているということを、もっとやはり我われは大きな声で、少なくとも研究者のレベルでは言わなければならないと思っています。というのは多くの議論、とりわけシオニスト側の議論としてあるのですが、今こういう状況にあるのは、パレスチナ人側が妥協できなかったからこういう結果になっているのだということを、延々と一九二〇年代から言い続けるわけです。
 これはもう問題というのは、まさに同じことが繰り返されているということで、けっして今始まったことではないわけです。パレスチナ人が妥協すれば解決するのだというのは、ずっとシオニスト側が言っていることなんですね。それは何かと言いますと、基本的には分割決議とか分割案というのが出てきた時にかならず出てくる議論です。今、パレスチナ人がすべて土地を失ったのは、機会を逸したからだという、この現状追認、パワー・ポリティクス、力の政治というものが追認されていくというなかで、現実を受け入れない側の落ち度であるという議論が、これはもう学問的な議論のなかでも入り込んできているわけです。
 実はこういう議論をするときに、先ほどのイスラエルとパレスチナを同じアクターとして扱うべきだという議論が、ここで出てくるわけです。つまり二重経済論という言い方をするわけですが、パレスチナのなかにユダヤ人の経済が自立化しているという説で、すでにイスラエル国家があることを前提にすべてが説明されていくという、こういうスタンスです。
 だから今回の議論のなかでも、やはりオスロ以降の問題、オスロの問題というのはもちろんこれは美しい言葉で、双方が妥協をしてなったなんて言いますが、これはもう誰も今は信じていないわけです。これはまさに力の強い国家と、力を持っていない非国家であるPLOが結んだ条約で、結果的にはどうなったかというのは、今の現状がまさにそういうことを示しているわけです。そういう話として考えていく必要がある。
 つまり私たちが考えなくてはいけないのは、現状を追認する、あるいは平和には妥協が必要だという言説のまやかしさです。これはパレスチナに関しては、ひじょうに深刻な話としてあるわけでありますので、これはけっして妥協することが平和への道に繋がっていないということを、パレスチナの歴史は示しているということだと考えます。
 したがってハマースの闘いというのは絶望的であって、もうほとんどこれは戦争なんて言葉を使うのがおこがましいくらいなのであります。非常に劣悪な武器と最新の武器、先ほどどなたかの発言にもありましたが、そういう非対称的な戦争というもののなかで闘いが行なわれている。そういうこと自体、またさらに、これは私が今日の午前中の時に言ったわけですが、これはまさに今回のガザへの空爆というのは、日本が最初のゲルニカに続いて、中国の重慶に対して行なった戦略爆撃──これは受け売りで申し訳ないのですが、その後広島、長崎といく、そのまさに空から何の痛みのないままに政治的な目的のために爆撃をしていくという。
 それに対してイスラエル国民のほとんどが不感症になっている。むしろかつて9・11があったときに、CNNが意図的に、ナダリード(?)という女性たちがフーッとやっているところを流すことによって、9・11に喜んでいる姿というのを映しましたが、アラブの放送局はガザが爆撃されている映像を見ながらイスラエル国民が喜んでいるところを映すべきなのですね。世界に発信すべきなのです。そういうことをやらないかぎり、現在のイスラエルの国民の九〇パーセント以上が空爆を、攻撃を支持しているという実態は明らかになってこない。
 絶対に防衛のための、テロに対する戦争だというのは誰も、ここにいらっしゃる方は信じていないというのは当たり前の話ですが、やはりメディアというものの持っている均等性というのはあるということで、私たちはそのあたりももう少し考えなくてはならないだろうというふうに思います。
 それでこういうところに出てきて、研究者としてなどというおこがましいことは言えません。ただ、とにかく私自身もイスラエルというところに住んだことがありますので、いかにイスラエルというのがひとつの攻撃をされて、ほんのカッサーム・ミサイルの一発というのが、イスラエル社会をパニックに陥れるかということは、よくわかります。よくわかるのですが、そのパニックがそのまま他者に対する攻撃性へと転化される部分は到底許されることではないことであります。
 そのイスラエル側を守るというか、少なくとも今は同盟関係にあるアメリカというのは、少なくともかつてはそうではなかった。つまりイスラエルというのを支援し始めるのは、六七年の第三次中東戦争でイスラエルが大勝利を収めてから。つまり強いものに対して、アメリカは戦略的に利用できるから手を結んでいるのだという、現時のなかでやはり考えていく必要がある、ということであります。
 いずれにしても、私たち中東研究に関わっている者としても、何らかのアクションを起こさなくてはならないということで、今回こういう形で参加させていただいたわけで感謝もうしあげます。
 どうもありがとうございました。

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